やっと一段落。
…とはいえ、30分くらいのつかの間の忙中閑あり状態。
近いうちに久しぶりのポッドキャストで話そうと思うが、古い友人と初めて仕事したら意外な面が見えて面白い。
「世界で最もそういうこと言いそうもないお前がそういうこと言うのか!?」
って感じである。
正解なんてない。その人とやろうと思った瞬間にその人が正解なのだ。
Aというギタリストとやってんのに、Bというギタリストみたいなリフが欲しいと言っても意味がない。
AとやってるならAの音が全て。
Aに向かって「あのアルバムの3曲目みたいな感じ、ちょーだい」と言うのも論外。
あのアルバムの3曲目たってその人にとっては過去のことなんだから、Aの今の音を肯定すればよい。
「そんなの投げっ放しでディレクションでもなんでもないじゃん」
という意見があるのも分かる。
あのアルバムの3曲目の感じが欲しいなら、もしくは今まで聞いたことのないAの音が欲しいなら、その音を引っ張りだすのがディレクションだ、と。
しかし思う。
高倉健さんに田村正和さんの演技を求めても意味がないのと同様に、いまのキムタクにロンバケを求めても意味がないのだと。(ちょっと違うな)
「こんなの面白そうじゃない?」
ということに人とお金が集まり、状況が整ってプロジェクトが始まる。
始まった時点で、その列車はホームを出ている。船だとしたら港を出ているし、宇宙船だったら惑星を旅立っている。
その途中で「そうじゃないんだけど」と言っても意味がない。だったら最初から旅立たなければよい。
行き先が分からなくなったり、何をすればいいのか役割が分からなくなって途中下車みたいなことを繰り返してるうちに
「組んだ以上は、その人の今を受け入れるのが正しい」
というディレクションの神髄に行き着いた。
苦節20年弱…。早く教えてくれってもんである。
しかしこれは志が同じベクトルに向いてる人にだけ当てはまる。なぜなら志が同じベクトルを向いてる人は、求めてるモノに勘づいて、それを返してくれるからだ。
全ての事象に正解も間違いもないとすれば、そこにあるのは指向性と志向性と嗜好性の微妙な違いだけなのだ。
だったらなおのこと、組んだ以上はその人の今の指向性と志向性と嗜好性が全てなんだと思う。
恋愛も同じ。
君のここが気に入らないから、もう少しこうなればいいのにと言っても意味はない。
ここを直してくれとか、自分の嗜好性で相手をコントロールしようとするのがそもそも間違い。
「君の全てが素晴らしい」
と言い続けよう。
言い続けることができると言うことは、信じ続けることができるということだ。
信じ続けることができれば、世界はきっとそうなる。
なぜなら世界は、信じた通りに変わるのだから。(多分)