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 タオが亡くなって数日は食事をするのも嫌だった。
「そういえばタオって、たまにブロッコリー食べたよね」
 という感じで、いちいち食事にタオの思い出がぶら下がってくる。(紐付けされている)
 しかも食べると体内にエネルギーが満たされるので、また悲しくなる。食べないでいると悲しむパワーすらなくなるんですよね。

 亡くなって数日してさすがに何か食べようと思ったんですが、料理する気にもならず、買いに行く気にもならず、ケータリングの人が家に来るのも嫌だったので外食することにした。
 何を食べるかヒカルと相談すると、一致したのは「派手な食べものがいい」ということ。美味しい、ヘルシー、高級とかには関係なくて、求めたのは「派手」であるということだった。

 フレンチのフルコースなんて派手な気がするけど、ちょっとずつ料理が運ばれてくることをイメージすると、その間が埋まらない気がした。しかも薄明かりでテーブルにキャンドルがあってみたいなのは艶っぽいけど陰鬱だ。
 そんな空間にいたらタオの話しになって悲しくなるに決まっている。

 豪華絢爛な懐石料理なんかも派手な気がするけど、しっぽり日本酒など呑んでいたら泣けてくる気がした。寿司なんかもそうですが、和食っていうのはどうも地味だ。地味というよりしみじみとし過ぎている。

 イタリアンなんかは見た目も味も派手でいいんですが、ちょっと明る過ぎるというか、賑やかで楽しげ過ぎる。

 スタミナつける意味合いもあって、しかも「ジューッ!」という焼く音が派手なので焼肉はどうかと考えた。しかし犬が亡くなって悲しいのに、牛を食べて元気になるというのが気持ちの上で整合性が取れない。

 そこで出てきたのがお好み焼き。
 別に肉メインでもないし、味付けが濃いのがいい。しかも鉄板で焼く音がノイジーで派手だし、手を動かして焼いて、ヘラであちちと食べるのもいい。手を動かすことなく座ってるだけで料理が運ばれてくると、手持ちぶさたで悲しくなりそうだもの。

 なんだかお好み焼き以外は考えられない気がして中目黒へ向かった。

 中目黒へ移動するタクシーの中で
「そういえばケムが亡くなったときも、お好み焼きを食べに行ったね」
 とひとこと。

 オヤジが亡くなって実家で飼えなくなったケムを引き取ったんですが、2002年の大晦日に20歳で大往生した。犬の20歳ってのは人間でいえば100歳越えだそうだ。
 何度もここにも書いていますがケムは晩年は寝たきり。
 床ずれできないように体勢を変えたり、おむつしてても身体がうんちまみれになるので深夜にそれを洗ってやったりが1年続いて、ちょっとだけ介護ノイローゼになりかけていた。
「来年もケムの世話か…。ちょっとつらいなー」
 と思ったら、それを察してくれたのか大晦日に亡くなった。
「もう充分に面倒をみてもらったから、私はもういいの。どうもありがとう。来年からはタオと仲良くやってちょうだいね」
 というケムのメッセージを感じた。
 気を使わせてしまって申し訳ないと思った。

 ケムの世話が壮絶に大変だったので、残ったタオだけの面倒をみるのは、拍子抜けするくらいに楽だった。
 なんの準備もないままに迎えたケムのいない正月。喪失感いっぱいの正月。

 お正月は火葬場も休みなので、7日までは火葬できないといわれて困った。
 でも窓全開にした脱衣所にケムを置いて祭壇(仏壇?)を作ったら遺体が痛むこともなく大丈夫だった。

 そしてやっぱり同じ気分になって数日はなにも食べる気がせず、そろそろ何か食べようということになり、派手なものがいいということで相談した結果、正月に空いてるお好み焼き屋を探して広尾に食べに行ったことを思い出した。

 悲しいときに気分を上げるのは、笑えるビデオでもなくて、いい景色でもなくて、楽しい酒でもなくて、派手な食べもの(=お好み焼き)ってのが我ながら慎ましい。

 そうそう…。
 辛いものやスパイシーなものも気分を上げますよね。アッパーモードに切り替わる。

 ぼくはかなりヤバい(麻痺した)辛いもの好きなんですがこのソースはマジでヤバい。耳かき1杯程度でしゃっくりが止まらないし、小さじ1杯が限界。
 商品名から、ラベルデザインから、おまけについてる骸骨ストラップまで、何から何まで下品ですが、この明瞭な下品さは悲しみとは対極にあるので、悲しみを中和し、相殺してくれる。…っていうか麻痺させる。

 世界1辛いと認定されているそうなので、みなさまも、悲しいことがあったらお試しください。